『きみは赤ちゃん』と『夏物語』

川上未映子が妊娠してから出産し、子が1歳になるまでの日々を綴ったエッセイ『きみは赤ちゃん』を読んだ。

私はもうすぐ臨月くらいなので、ちょうどこのエッセイの中間の地点くらい。いいタイミングで読めたかなと思う。
前半の出産編(妊娠~出産までの部分)はこれまでの自分についても振り返りながら「わかる、めっちゃわかる…」というところも「さっぱりわからん!」というところもあって楽しく読めた(ただし陽性反応が出るまでのくだりは、妊娠まで時間がかかった人とか、不妊治療まで進んだ人が読むには少しつらいかもしれない。自分は読んでいてちょっとつらくなった)。

そんな風に自分に重ねて読んだところもありつつ、今年の夏に読んでやや消化不良となっていた『夏物語』で描かれていたのはこういうことだったのか、と気づくようなところもあって、面白い読書だった。

※以下、『夏物語』の結末に触れているのでご注意

特に「生みたい気持ちはだれのもの?」という一篇の「だってすべての出産は、親のエゴだから」という言葉。
『夏物語』を読んだ後の感想で「結局、主人公にとっての出産は「会いたい」という一方通行の気持ちによって成り立っているものだった。エゴでしかないのだ、という終わり方だと感じた」と書いたんだけど、やっぱりその解釈は間違ってなかったのかなーと思った(感想はここに書いた→9月に読んだ本。とにかく散歩いたしましょう、批評の教室、夏物語、菜食主義者 (新しい韓国の文学 1) など - 日常が7で非日常が3くらい)。
そして読んでいて引っかかったのは、夏子がAIDについては色々と悩んだり葛藤して、自分なりの答えを出そうとしているわりに、産むということについてはストレートに自分の気持ちに沿って進んでいった印象だったことなんだけど、それについてもこのエッセイを読んだらすっきりした感じ。

そして「なんとか誕生」の最後の文章が「会いたかった」「会えてうれしい」という感情の爆発のようだったことも、『夏物語』への納得感につながったように思う。
自分は子どもを産んだ時にここまでの気持ちを抱けるのだろうか…?という不安、あるいは、自分がここまでの気持ちに到達したとしてそれはそれで恐ろしいな…というようなおののきを感じたけど、なんにせよ、このような強い感情を抱いた人が書いたのが『夏物語』なのである、ということは読後のモヤモヤした気持ちの解消にかなり効いたような気がする。


後半の産後編に関しては、『夏物語』との関連というよりは今後の自分へのエールや戒めというような気持ちで読んだ。

たとえば、この文章なんかは心の器からストレスがあふれ出しそうになったら目に入るようベビーベッドやおむつなどの収納場所にペタッと貼っておきたい。

 どの時期にも、ぜったいに回避しないといけないことはあるけれど、命にかかわらなければ、つねにぎりぎりの気持ちになる必要はないのだと。喉にものをつまらせないように、どこかから落ちたりしないように、目を離さない。これだけを必須のこととして、あとは正解はないのだから、ということで、精神的にマイルドにやっていかなければ、なにもかもが不幸になると思ったのだった。(pp.243-244)

あとは、産後の夫婦関係についての文章は「めっちゃ自分もそうなりそう…」って感じたので、戒めとして読んだ。

真夜中の授乳待ちのときなどに様々なお母さんの日々の記録を読むようになったという筆者のこのあたりの感情が、つわりで苦しんでいたときの自分の感情とめっちゃ重なった。
つわり中、ベッドで横になって世の中…というか男性優位な社会を憎んでいた自分。あの時は孤独を感じていたけれど、似たようなことを考えていた人もいたのだと思うと少し心がすっとした。

 少しでも時間があると、いろいろなお母さんたちの日々の記録を読むようになった。
 ほとんどは真夜中、オニの授乳待ちのとき。みんながそれぞれの人生を生きてるんだけど、でもみんな、やっぱりよく似たしんどさに耐えていた。
 女性や母親が男性や社会から植えつけられた先入観を、どれだけのながい時間、文句もいわずにあたりまえのこととして生きてきたか。これからも生きてゆかねばならないのか。そんなの、これまでだってさんざんわかっていたはずなのに、あらためてその壮絶さが頭をめぐって、怒りややるせなさで、本気で鼻血がでそうになるのだった。
 それがどんな問題であっても、安易に一般化するのを避けて、本当はいつだって「個人」を基本にして考えなければならないのに、そういう真夜中をひとりきりでえんえんと過ごしていると、だんだん世のなかの「男全般」や「男性性」というものがこれ、本当に憎くなってくるのである。そして、これまで女性や母親が味わった苦渋やなめさせられてきた辛酸を、おなじように思いしらせてやりたくなってくるのである。(p.229)

心がすっとしたと同時に、産後もこのような精神状態に陥る可能性がめちゃくちゃ高いことが恐ろしい。夫は敵ではなくて仲間なのだ、どんなにつらくても男性に対する怒りを夫に対してぶつけてはいけないのだということを忘れないようにしなくては…。と思う。


と、まぁこんな感じで『きみは赤ちゃん』を読んで色々考えた。
子どもを産む前に読めてよかったなぁ。子育て中につらくなったらまた読み返したい。

一番心に残ったのはこの部分だった。

 たしかに眠ってなくてほぼ限界だし気絶するほど眠いけど、でもこの時間、この子のこの顔をみつめているのはたったいまここにいるわたしだけで、世界中に、いまここにしかない時間なのだ。
 この子はきっと、すぐに大きくなってしまうだろう。こんなふうにわたしに抱かれているのも、あっというまに過去のことになってしまうだろう。誰にも伝えられないけど、でもわたしはいま、きっと想像もできないほどかけがえのない時間のなかにいて、かけがえのないものをみつめているのだ。そして、夜中を赤ちゃんとふたりきりで過ごしたこの時間のことを、いつか懐かしく思いだす日がくるのだと思う。(p.171)

先日読んだ『旅する練習』が「いまここにしかない時間」「いまここで自分しか目撃していない景色」を何らかの形で残すことについての願いがこもっているような物語だと感じたことを思い出した。
世界中にあらゆる形でこうした時間が存在するんだよなぁ…と思うと気が遠くなってくる。

そして「最後とは知らぬ最後が過ぎてゆくその連続と思う子育て」という俵万智の言葉も浮かんだ。

子どもが産まれてからの日々は急速に過去になってゆくかけがえのない時間で、そこかしこに最後とは知らぬ最後が散らばっているんだろうな。
子どもがいない日常だって、かけがえのなさも、最後とは知らぬ最後がそこかしこにあることも同じだけれど、きっとその密度が段違いなんだろうなと想像する。

そんなことを考えた2021年末~2022年のはじまりだった。
2022年、よい年になりますように。